写真は今回も福島ではありません。
母を連れて行った公園の紅葉があまりにきれいだったので・・・。
(「もみじばふう」または「アメリカふう」という名前の木です)
●年間第33主日、貧しい人のための世界祈願日
聖書箇所:ダニエル12・1-3/ヘブライ10・11-14, 18/マルコ13・24-32
2021.11.14カトリック原町教会
ミサのはじめに
フランシスコ教皇は2017年から毎年年間第33主日を「貧しい人の日」と定め、今年はその5回目になります。日本では「貧しい人のための世界祈願日」と言われていますが、本当は「世界貧しい人の日world day of the poor」です。貧しい人のために祈りましょう、ではないのです。本当の意味で貧しい人とともにいること、共に生きること、「互いの分かち合い」がテーマなのです。そのことを受け止めながら、今日のミサを祝いましょう。
ホミリア
「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」
今日の福音のこの言葉は、世の終わりについての聖書の教えの大切なポイントを示しています。世の終わり=終末についての教えは不安や恐怖心をあおって、人々をコントロールしようとするようなものではありません。すべてのものは滅びても、決して滅びないものがある。その滅びないものとは何か、と問いかける。そして、その滅びないものを大切にして歩もう、という呼びかけなのです。
今日の箇所ではそれは「わたしの言葉(logoi=logosの複数形)」だと言われています。イエスの教え、イエスの告げ知らせた福音全体のことでしょう。マルコ福音書では最初の部分にこの福音がまとめられています。
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1・15)
神は決してあなたがたを見捨てていない。神は王として、あなたがたを救いに近づいてきてくださっている。だからその神に心を向け、神に信頼して自分を委ねていきなさい。
あるいはこうも言えるでしょうか。「神はすべての人のアッバAbba。すべての人を無条件にいつくしまれる父であり母である方。わたしたちは皆、その神の子として生きるように、そして、互いに兄弟姉妹として生きるように招かれているのです。」
さらにまた、使徒ヨハネならこうまとめるでしょうか。「神は愛。人間を愛し、愛のゆえにご自分のひとり子を与えつくされた。この愛を知ったわたしたちは互いに愛し合おうではないか。」
本当に滅びることないイエスの言葉にいつも結ばれて生きることができますように。
さて、今日は「世界貧しい人の日」。今年の教皇メッセージで触れられている福音書の箇所の一つはマタイ6・19-20でした。
「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。」
この箇所に関して、教皇はこうおっしゃいます。
「イエスの弟子になるということは、地上には宝を積まないという選択をすることです。地上の宝は、実際には もろくはかない、安心の幻想を与えるだけのものです。それよりも、永遠なるもの、何にもだれにも壊されることのないものを見極めるために、真の喜びと幸いに至るのを妨げるあらゆる束縛から自らを解放する意欲が必要なのです。」
そういう意味で、富を手放すこと、貧しい人に差し出すことが求められています。しかし教皇は、いわゆる「施し、慈善、チャリティー」を無条件に良しとしているのではありません。もっと大切なのは「互いの分かち合いmutual sharing」だと言います。持っている人が、困っている人に何かを与える、というような関係ではなく、持っている人は持っていない人と持っているものを分かち合い、同時に、貧しい人の持っている素晴らしいものを尊重して、互いに分かち合う。そのためにはまず貧しい人と「出会うこと」だと教皇は言います。貧しい人に「出会うために」待っていたらダメだ。「出ていく」ことが必要なのだとおっしゃるのです。厳しいですね。
ところで、11月1日から12日までの予定で、COP26(第26回気候変動枠組条約締約国会議)が開かれていました。各国の政治家がいろいろと議論していますが、なかなか合意に至らず、一日延長されてようやく合意文書ができたそうです。しかし、会場の外には、より徹底した対策を求める若者たちの姿がありました。改めて気候変動、地球温暖化、CO2削減などの問題・課題の大きさを考えさせられています。そこにあるのは未来の世代との不均衡という問題です。今のわたしたちがこのまま豊かさを享受していれば、将来の世代にとんでもないツケが回されることになる。ここにも格差・不均衡の問題があります。ここでも、今のわたしたちは将来の世代と地球の豊かな恵みをどんなふうに分かち合いができるのか、本当にそれを問われているし、誠実に答えなければならないと思います。
人間らしい生活をするのに最低限の必要なものにも事欠く人々がいます。衣食住だけでなく、教育や保健衛生、家族のつながり・コミュニティーとのつながりなど、あらゆる面での豊かさをその人々の上に実現させていくという大きな課題があります。
でも、そういうことだけがイエスの言葉、イエスの福音の世界ではありません。今年のメッセージの終わりのほうで、教皇はこうおっしゃいます。
「『わたしたちも貧しいのです』――わたしたちがそう本気でいえたなら、それはどんなに福音的なことでしょう。」
わたしたちキリスト者にとって、貧しさとはただ単に克服すべき問題ではありません。
「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。」(ルカ6・20)
とイエスはおっしゃいました。パウロはこうも言いました。
「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」(IIコリント8・9)。
イエスが貧しくなられたように、わたしたちも貧しくなる、それはすべてのキリスト者が招かれている道です。現実の世界に貧しい人がいる以上、わたしたちはその貧しさをどう分かち合い、どうしたら本当に貧しい人と兄弟姉妹になれるか、「貧しく生きるとはどういうことか」。司教・司祭であろうと、修道者であろうと、信徒・求道者であろうと、みんながその問いかけの前に立たされていると思います。
わたしたちが滅びることのないイエスの言葉をしっかりとどまり、それぞれの立場で、それぞれの仕方で、貧しく生きることを求め続けることができますように。アーメン。